HOME > 咢堂コラム > 040 犬養を哀しみ、羨んだ咢堂

Yukio Ozaki and his daughter
("Yukio Ozaki and his daughter" Yousuf Karsh,1950)

2021.5.15

盟友・犬養を哀しみ、そして羨んだ咢堂。五・一五事件

1932年(昭和7年)5月15日は憲政史の中でも重大事件の一つに挙げられる
「五・一五事件」が起きた日です。

時の内閣総理大臣・犬養毅が海軍将校に襲撃暗殺された事件です。
その概要については数多くの文献が残されていますのでここでは割愛しますが、
「憲政の二柱」と並び称された尾崎行雄の胸中はいかばかりであったか。
尾崎晩年の著書「回顧漫録」(1947年/昭和22年)によると、その複雑な心情が読み取れます。
ともすれば非難を浴びるやも知れない述懐ですが、以下に引用転載いたします。

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元来私は死をば強いて厭わないが、何故だか、病床で死ぬことはいやだ。
生来極めて病身であったから、死にかけたことは2、3度もあった。
現に昨年春(=この項、昭和6年の記)肺炎にかかった時は、年齢が年齢だから、多分死ぬだろうと鑑定した人が多かった。幾度死にかけてみても、病床で死ぬことは、やはり嫌だ。
然らば「どうした死に方が好きか」と問われると、少し困るが、実はできる事なら、天下後世の教訓となるような死に方がしたいのだが、私としては過分の希望であるかも知れない。
天変地異のために、一思いに興衆と共に死ぬのも好いが、公人である以上は、それよりも刺客の手に倒れる方が好い。友人木堂兄(=犬養毅。木堂は犬養の雅号)が、首相官邸において撃殺されたとの電報を得た時、私は遺族に対しては、無限の同情を寄せたと同時に、他面においては、羨望の情に堪えなかった。
国士の死に方としては、立派なものだ。閣議の席上堂々として救国の大計を論ずるにあたって、撃殺せられたならさらに一層光彩を添えたであろう。
が、世事はそう注文通りに行くものではない。先ずあの辺で、満足するより他はなかろう。
私は大隈内閣総辞職の時に、将来再び入閣しないことに決心したから、たとえ希望しても木堂と同様に官邸で横死することはできない。
もし、何者の熱狂漢が私を殺すの必要を感じたならば、願わくば私が議会の演壇に立って、君国の計を痛論しつつある時に実行して貰いたいものだが、それは出来ない相談かも知れない。
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1890年(明治23年)の帝国議会開設以来、尾崎も犬養も共に連続当選42年目の「同期の桜」でありました。
在職63年・連続当選25回が尾崎の記録であるならば、その次の犬養毅が尾崎に継ぐ歴代第2位(18回)です。
畏友の遭難を悲しむと同時に羨んだ尾崎行雄。
議会人としての煩悶や羨望が、述懐の中に見え隠れ致します。


国立国会図書館「近代日本人の肖像」
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/17.html

岡山県 犬養木堂記念館
http://www.maroon.dti.ne.jp/inukai.bokudo/