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Yukio Ozaki and his daughter
("Yukio Ozaki and his daughter" Yousuf Karsh,1950)

2015.2.1

「尾崎咢堂を米国に招く」



尾崎行雄は1950年(昭和25年)春、元駐日アメリカ大使ジョセフ・グルー、ウィリアム・キャッスルの両氏らが主宰する「日本問題審議会」の招きで最後の訪米を行いました。
日本がサンフランシスコで講話会議に出席、国際社会への復帰を果たしたのは時の内閣総理大臣・吉田茂や大蔵大臣・池田勇人ですが、その前に尾崎が両国の雪解けを担う役割を果たしたことは余り知られていません。

当時の経緯は、意外な一冊から伺う事ができます。
『桑山仙蔵翁物語』(上出雅孝著、淡交新社刊)の1ページに尾崎をアメリカに招いた男・塚田数平氏のエピソードが収められています、その主要な個所(133~134ページ)を抜粋して皆様にご紹介します。

桑山仙蔵翁物語

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1950年(昭和25年)頃だった。「都」へきたお客の一人に、戦前、東京の米国大使館参事官だったデューマンという紳士があった。弟のお医者さんと二人で、日本食を食べに来たのだが、二人とも流暢な日本語を喋るので、塚田は如何にも親友を得たように悦んでお相手をしていた。

たまたま塚田が越後の出身であることを知ってデューマン氏が「日本の政治家で英国のチャーチルに匹敵しうる人物は尾崎行雄氏だ」と、当時すでに90歳を越えていた咢堂を絶賛した。

塚田は尾崎咢堂が若いころ、越後の新潟で新聞記者をしていたことも、よく知っていたし、日本における立憲政治の祖父と仰がれている咢堂の人格を尊敬していた……この人物をデューマン氏があけっぱなしで褒めたので、全く悦に入ったらしい。とうとう塚田は彼の貯めた金3万ドル余を投げだして、尾崎咢堂を米国に招待する計画をデューマン氏に実行してもらった。
塚田はこうすることによって、日米戦争で散々に痛めつけられた両国民をなだめ、日米親善の私的外交を助成しうると堅く信じていた。さらに大きく考えればこれは戦後まだ日本の要人たちが、何の手もうっていない時、アメリカに親善をよびかける第一声であった。
それを塚田が、デューマン氏の助言と協力を得て具体化したのだ。

尾崎咢堂一行5人の往復旅費や、ニューヨークその他の重要都市訪問費、ワルドルフ・アストリア・ホテルで一人前25ドル(現在の12,000円)の尾崎歓迎晩餐会を開き、約500名の米国紳士淑女を招待した費用など一切を塚田が払った。

これは大戦後まだ、ニューヨークでは日本政府関係筋や商社、銀行などの出先が少しもない頃だし、日系人もみな肩身せまく感じ、鳴りを鎮めていた時だったので、塚田の思いきったこの仕事はいまだに、多くの人々に深い印象となって残っている。

この催しについては、塚田がいっさいを完了したあとで、いろいろ回顧談をしてくれたのを聴いたり、また彼がやることを静観していた程度の知識しかないので、このぐらいしか話す材料がない。
「都の商売がよくなると、塚田は支配人として、その儲けを自由に使いこなし、1階、2階、3階の設備や飾りつけにも金をかけた。彼独特の趣味を生かし、日本気分を出すように改良した。

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『桑山仙蔵翁物語』は、尾崎財団会員の皆様がご利用いただける「咢堂文庫」に収蔵されています。


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