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Yukio Ozaki and his daughter
("Yukio Ozaki and his daughter" Yousuf Karsh,1950)

2018.3.25

「憲政の十傑」を通して見えてくるもの

    

    

憲政記念館が発行する公式広報紙「憲政だより『時計塔』」。
財団スタッフおよび関係者にも同紙のファンは多く、季節の変わり目の密かな楽しみとなっています。
今から3年前の平成27年に記念すべきNo.001号が創刊、つい先日も最新の春季 No.014号が発行されました。ミニ企画展示「二.二六事件」や庭園の開花情報、常設展の紹介など耳よりの情報が満載です。

そんな同紙では、No.001~No.011号までの間「憲政の十傑」と題されたコラムが連載されていました。憲政史に大きく名を残す10名の略歴、憲政において果たした功績、そしてエピソードが綴られています。
十傑に挙げられた人物は半数以上が総理大臣経験者ですが、中には自由民権運動の旗手として名高い板垣退助、わが国における初の法廷弁護士(バリスター)の星亨、そして咢堂・尾崎行雄なども加わっています。

さて、この十傑を位階や身分などの上下でなく、歴史という時間軸へ横一列にならべると興味深い事実が浮かび上がります。
尾崎行雄の生まれた1858年(安政5年)を起点に各々の年齢を辿ると、板垣退助や伊藤博文、大隈重信らは20歳前後の年齢差になります。まさに憲政の第一世代と言っても過言ではなく、国会議事堂の中央広間に置かれている三体の銅像にも納得がいきます。

  



尾崎行雄のほぼ同年代には、「憲政二柱」と並び称される犬養毅、そして原敬が挙げられます。いわばこの辺りが、憲政の第二世代に当ります。

  

いずれもジャーナリスト出身の政治家であり、尾崎は新潟日報の前身である新潟新聞の、犬養は秋田日報(後の秋田魁新報)の主筆をそれぞれ務めました。
また原敬は1879年から1882年までの三年間、郵便報知新聞の記者を務めていました。そして、わが国における政党政治の原型を星亨から引き継ぎ、完成させた立役者でもあります。


原の先輩格でもある星亨は、尾崎と共に東京からの退去命令を言い渡されたり、東京鉄道の買収を巡って市長の尾崎とやりあった奇縁の人物です。自由民権運動では自由党の中心人物として大隈や尾崎の改進党と相対しながらも、藩閥政治の打破に挑んだある意味での同志でもあります。

「男子の本懐」で知られる浜口雄幸は十傑の中でも一番の若年で、憲政史の中では第三世代以降になります。
尾崎とは干支が一回り違いますが、政界入りする前の大蔵官僚時代から勤勉さで一目おかれ、尾崎からも覚えめでたい人物でありました。「腹切り問答」の浜田国松、「粛軍演説」「反軍演説」で名高い斎藤隆夫に隠れてはいますが、浜口も憲政史においては雄弁家の一角に挙げられています。その陰には、尾崎の演説を自らの範としていたという記録が評伝などで残されています。

そのような人物関係を参照したり時代背景を探る上でも、尾崎行雄という尺度は興味深い人物です。当財団が発行する「世界と議会」の連載「尾崎行雄伝」でも、十傑のエピソードや人物像が時おり登場します。

さて、「憲政の十傑」バックナンバーは、憲政記念館のホームページでもご覧いただけます。以下は各記事へのリンクになりますので、ぜひともお読みいただき、各人の足跡や魅力に触れていただけると幸いです。

※氏名の次は生年ならびに没年、尾崎行雄との年齢差です

その1 尾崎行雄(1858-1954)(0)

その2 板垣退助(1837-1919)(+21)

その3 伊藤博文(1841-1909)(+17)

その4 犬養毅(1855-1932)(+3)

その5 大隈重信(1838-1922)(+20)

その6 西園寺公望(1849-1940)(+9)

その7 高橋是清(1854-1936)(+4)

その8 浜口雄幸(1870-1931)(-12)

その9 原敬(1856-1921)(+2)

その10 星亨(1850-1901)(+8)

肖像出典:国会図書館「近代日本人の肖像」(http://www.ndl.go.jp/portrait/)