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Yukio Ozaki and his daughter
("Yukio Ozaki and his daughter" Yousuf Karsh,1950)

2017.9.24

幻の「マッカーサー記念館」


衆議院・憲政記念館の母体となった尾崎記念会館。
永田町1丁目1番1号に位置する同館の建設計画は、尾崎没後の1954年(昭和29年)に築地本願寺で行なわれた衆議院葬に端を発します。
当財団の初代理事長・川崎秀二(元・厚生大臣)らが中心となってわが国初の政治記念館建設を目指した経緯は『尾崎記念会館・時計塔建設記』にも描かれています。

今回のコラムタイトルですが、歴史に「もし」は禁物としながらも、現在の憲政記念館は存在していなかったかも知れないというお話です。

袖井林二郎・法政大学名誉教授の著書『マッカーサーの二千日』(1974年、中央公論社)によると、占領終了後のダグラス・マッカーサー元帥離日にあたり、名誉国賓の称号を氏に贈る検討が衆議院でなされていたことが記されています。
実際に1951年(昭和26年)5月17日の衆議院運営委員会議事録でも「名誉国賓に関する法律案で、マツカーサー元帥をとりあえず一番目に指名する」という自由党・石田博英議員の発言記録が残されています。

 

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同書には「“マッカーサー会館建設期成会”を母体として都内に元帥記念館の建設が進められ、本人の承諾も得て、実際に募金に着手している」という記述があります。
この記念館建設を幻たらしめたのは、名誉国賓の議案が提案される2週間前の5月5日。アメリカ議会上院の軍事・外交合同委員会でのマッカーサー本人による証言でした。委員会の聴聞会で、マッカーサーはこう語っています。

「仮にアングロサクソン族が科学、芸術、神学、文化の点で45歳だとすれば、ドイツ人はそれと全く同じくらいに成熟している。しかしながら、日本人は、時間で計った場合には古いが、まだまだ教えを受けなければならない状態にある。現代文明の基準で計った場合、我々が45歳であるのに対して、12歳の少年のようなものでしょう」

前述の袖井教授はマッカーサーの発言に対し「一生懸命、民主主義を勉強した日本人は、ほめられるかと思っていた。日本の将来性を語ったと考えれば良かったが、そう受け止めた日本人は少なかった」と述べています。

また、占領期の駐日外交官を経て、後に元米国務省日本部長を務めたリチャード・ボズウェル・フィンは、自らの著書「マッカーサーと吉田茂」の中で次のように触れています。

マッカーサーと吉田茂


「マッカーサーは西欧的概念や制度が日本にとっては相対的に新しいと言おうとしたつもりだった。ところが日本では、この不用意な発言が、日本人の精神的な発育度は12歳くらいにしか達していないという意味にとられてしまったのだ。この言葉は日本人を怒らせ、元帥の名声を台無しにした。一人の人間としての彼に対する尊敬の念は急速にしぼんでいった」


先のマッカーサー発言が日本国内でも広まると、マッカーサーに対する国民の思い入れは薄れ、名誉国賓に関する議案や記念館建設の募金計画も立ち消えとなりました。国を挙げての礼賛ムードは終焉を迎えます。

このマッカーサー記念館ですが、その候補地は果たしてどこであったのかという疑問とともに興味が湧きます。袖井教授の別の著書「マッカーサー 記録・戦後日本の原点」(1982年、日本放送出版協会/現在のNHK出版)によると、憲政記念館が立つ前の参謀本部跡が挙げられていました。同書には会館建設期成会による計画の熱気が急速に冷め行く様が描かれています。


建設計画の総事業費は実に4億5,000万円。三宅坂の参謀本部跡に鉄筋コンクリートの3階建ビルを建てる目論見で募金を募りますが、募金開始の時期が「日本人は12歳」発言の翌年1952年(昭和27年)2月であり、狂騒ともいえるマッカーサー熱はすでに過去のものとなっていました。
60万円の宣伝費をかけて集まった募金はわずか84,000円と惨憺たる有り様で、1年後には募金どころか借金が300万円まで膨らみ、計画は立ち消えになりました。
尾崎記念会館が国民の浄財を広く募り、最終的には天皇陛下(昭和天皇)からの御下賜金まで寄せられ竣工に漕ぎつけたのとは実に対照的です。

もしもマッカーサー自身の舌禍がなかったら、国会議事堂の前には連合国軍最高司令官の記念館が建てられ、敗戦の象徴として今も残っていたかも知れません。
そのように考えると尾崎記念会館の建設構想、そして全国からの幅広い募金による建設の実現は、被占領国としての再出発を余儀なくされた衆議院の、そして当時の国会議員たちによるささやかな抵抗であったとも言えるでしょう。