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Yukio Ozaki and his daughter
("Yukio Ozaki and his daughter" Yousuf Karsh,1950)

2018.5.21

「無所属の大先輩」からのメッセージ


昨秋の解散総選挙から5月連休明けに至るまで、政党の離合集散が相次ぎました。
そうした中、無所属での独立独歩を決意された議員も少なからず存在します。
憲政の父として名を残す尾崎行雄は、晩年の回想録「民権闘争70年」で次のような警句を残しています。
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私は除名脱党の常習犯である。私は熱心な政党論者で改進党、政友会、憲政会はいずれもその結成に際して発起者となっているほどだが、良心の自由まで拘束する政党とは調和できない場合がたびたび起こる。
はじめから自分らが組織した改進党の後身たる進歩党から除名されたこともあるし、政友会からは除名はされないが二度脱退した。
こんどの除名(=筆者注:普通選挙法案の論議をめぐり、田川大吉郎と共に党紀を乱したとして除名された件)もかねて覚悟していたことで、なんの痛痒も感じなかったが、ただ私の心境に大きな変化が生じた。
このとき、私はわが国には徒党はできるが政党はできないということを痛感し、もはや政党を作る仕事はしばらく中止して、政党の材料たる「人物を作る仕事」をやろうと決心した。
つまりわが国ではとても正しい政党などはできないので「立派な政党を作り、これを運営しうる人物」を作る仕事から始めなければならないと考えたのである。
それ以来私は政党に属せず、今日まで単独で働いている。
世間は政党が悪いということには気がつくこともあるようだが、政党を作る人物が悪いということは、十分わからないようだ。
政党をつくるのは直接は議員だが、議員を選挙するのは国民であるから、政党を作る人物が悪いのは国民が悪い、つまり自分たちが悪いということだから気がつきにくいのである。
わが国人は議員と云う自分たちの総代を選ぶのに自分たちの利益を図るものを選ばずに、かえって自分たちの不利益となるような人間を選ぶから、ついには愚かな戦争まで始めて、今日の惨めな状態に陥ったのである。
それはあたかも泥棒に金庫のカギを与えて金庫番を頼んだようなものだ。こういうことが改められなければよい政党はできない。
わが国にはいまなお徒党はあるが政党はない。

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同書の初出は1952年(昭和27年)ですが、半世紀以上が過ぎた現在でも、尾崎の言葉は色褪せません。
むしろ、尾崎が嘆いたころから余り変わってないのではないか。財団の一員としても、不甲斐ない思いに駆られます。

尾崎の時代と現在では事情が異なりますが、「無所属」という立場を貫くことは、選挙において相当のハンデを覚悟しなければなりません。
衆議院ならば選挙区と比例区の重複立候補が出来ず、またにわかに問題視されている政党助成金の恩恵にあずかることもできません。
また晩節の尾崎がそうであったように、議会での質問機会も満足に得られません。
一方で、退路を断つことで見えてくるものもあるでしょう。

自分が本当にしたい政治は、果たして何か。
そして、誰のためにその政治をしたいのか。

「道理」と「無理」を行き来する振れ幅から解き放たれることで、見えてくる「筋」もあることでしょう。

尾崎行雄自身も志半ばであった「人物を作る仕事」
これに関しては、政党に所属していた今まで以上に、不偏不党の立場に置かれたこれからが本番も知れません。
政党政治そのものは、決して否定されるべきものではありません。
同時に政党名だけあれば、そこに属する議員は問答無用で合格なのかというと、そうでもない。そうした見極めは、むしろ政治家よりも、政治家を選ぶ有権者にこそ求められるものです。
無所属を選んだ議員の方々は、図らずも選挙民が試される機会を得ることができた、そう捉えることもできましょう。

私たち尾崎行雄記念財団が位置する永田町1丁目1番地1号・憲政記念館のエントランスには、尾崎行雄が95歳で亡くなる前年にしたためた揮毫が石碑に刻まれています。


「人生の本舞台は常に将来に在り」。
不偏不党の立場となられた議員の皆様には、ぜひとも心の片隅に留めていただけると幸いです。

衆議院会派名及び会派別所属議員数(http://www.shugiin.go.jp/)