HOME > 咢堂コラム > 008 選挙公報に見る尾崎の覚悟

Yukio Ozaki and his daughter
("Yukio Ozaki and his daughter" Yousuf Karsh,1950)

2017.8.15

「選挙公報に見る、尾崎の覚悟」


8月7日より15日までの終戦の節目までの間、尾崎財団フェイスブックでは戦争末期の政治家たちに注目し、さまざまな観点からスポットを当てて参りました。

時の政治家は何を想い、何を発して来たのか。
本コラムでは、先の大戦末期における尾崎もうひとつの闘いについて触れます。

翼賛選挙の別名を持つ第21回総選挙における尾崎行雄を象徴する出来事といえば、連載の第一回でも触れた田川大吉郎の応援演説に端を発する「不敬事件」が一般的に知られています。
演説による逮捕は尾崎にとっても不当であると同時に、当初は予想だにせぬ、いわば不意打ちでした。
一方で、同選挙では応援演説以上に相当の覚悟をもって臨んだ出来事がありました。それが、今回紹介する当時の選挙公報です。
自身も「今回ばかりは危うい」と回顧録で語ったほどに、軍部の選挙干渉は凄まじいものでした。
それをはねのけて尾崎は当選を勝ち取るわけですが、時の政権と対峙するにあたり用意したのが公報の依頼文でした。
有権者の皆様には、当時の気迫を感じていただけると幸いです。
また国政・地方選を問わず、選挙に挑んだ経験をお持ちの方はご自身の公報と読み比べて頂ければと思います。

尾崎選挙公報(前)

三重県第二選挙区選挙人諸君に告ぐ

衆議院議員候補者
尾崎行雄

今日まで50余年間諸君の推薦によって、議員をつとめておる間に大分年をとりましたから、もう公の生活をやめ、余生を風月の間に送ってもよいのでありますが、ただ一生国事を目的に暮らした私としては、最後の御奉公をせないで、公の生活をやめる訳には参りません。
是非とも君国のために最後の御奉公を致したいのでありますが、それにはこれまで、一生を立憲政治のために送って来たのでありますから、やはり議員としてでなければ適当の御奉公は出来ないと思いまする。
その訳を簡単にお話をすれば、我が国の如く世界に類例のない有り難い皇室を戴いておる国柄に於いても、徳川時代、北条時代、足利時代等がありました。然らば下の人民の方はと云えば、斬り捨て御免の世の中に生存しておったので実に哀れはかなきものがありました。
かくて上は皇室の御悲運となり、下は人民の不幸となり、長く続いたために国家の発達は遅々として進まず、神武天皇以来2500余年へても全国の人口わずか3千万人ほどに過ぎなかったのです。

然るに今日は内地だけでも7千万人に増し、朝鮮、台湾を入れれば1億人に達しております。
また明治の初めには政府の歳出は3,4千万円に過ぎなかったのでありますが、今日は平生(へいぜい)でも20億円、今年の如く軍事費を計算すれば200~230億円になって、明治23年初めて国会を開いた時のほとんど300倍になっております。
実に明治以後の国運の進歩は驚くほどでありますが、これには内外幾多の原因がありますけれども、その内最も大切かつ重大なものは、明治天皇のお働きと考えます。

天皇には御即位の始めに当たって「万機公論に決す」と仰せられ、その他4条を天地神明に誓わせ給い、その後引き続いて非常の御苦心をもって憲法と皇室典範をご制定に相成りました。それがために人民の幸福安寧は確実に保証せられ、将来この憲法が存する以上は何人(なんぴと)が出ても、決して人民の幸福を害することは出来ないようにお定めになりました。

私どもはこの大御心(おおみこころ)を奉戴して、先輩および同志の人とともに身命を擲(なげう)って立憲政治の制定、立憲政治の発育に尽力し、進んで政党を組織し、選挙により多数の投票を得た政党に内閣組織をお命じになる様にすれば、皇室のためにも人民のためにも最も安全な方法と考えました。
然るにその頃の政府は我々のごとく政党内閣論を唱える者を国賊と罵って、帝室内閣と称する方法を主唱しました。
しかしその主唱者たる伊藤公(伊藤博文)や桂公(桂太郎)の如きも実行の末、その過ちを悟ったものと見えて遂に自分から進んで政党を組織し、その首領となる様になったのでありますから、即ちこの点において私どもは勝利を得て立憲政治の正しき道が漸次おこなわれる事になりました。

その結果世間では政党内閣を国賊と見ないのみならず、これを憲法の常道と称えるようになって、全国の大新聞でもみな憲法の常道を主唱するようになった。然るに悲しいことには政党の人々が段々腐敗を致しまして、ただ多数の投票を得、政権を握りたいがために不正の手段を施して、賄賂その他の悪事をなし、政党の候補者に多数の得票を集めるようになりました。それでは如何に多数であっても正しいものではございませんから、政党の組織者であったところの私は、内部から百方これに忠告してこの不正の手段を改めさせようと尽力致しましたが、不幸にして無力の致すところ、目的を達することが出来なかった。
その故に憲政会も政友会も皆その始めにおいては、私は組織者の一員となったのであります。

けれども、その為すところが私どもの目的に叶いませんから、これを離れて政党の外よりこれを矯正しようと思い、今の政党のやり方で多数を得たのでは、この上内閣を組織させる事は決して憲法の常道ではないのみならず、逆道である。
これを改めなければやがて政党は自滅するより他はないと頻(しき)りに唱えました。
けれども日本大多数の人々は私をほとんど気でも違った者のように考えて、憲法常道論を主唱しておりました。
その内に政党の信用は段々減少して、遂にご承知の如く今日は自分から政党を解散して、無政党の世の中になった。
しかし立憲政治が正しい政党なしで行われようとは私は思いません。こういう風にして段々立憲政治の発達が鈍くなって行きますると、あるいは多数を得た党派に内閣を組織させるような多数決は、民主主義であるからどうしてもこれを改めなければならん等と云う事を申す者すら出て来ました。

無論、万機公論に決すという以上は、多数決になる他はないのであって、それを民主主義であるから悪いなどと云う事は、全く憲法を理解せないものであるのみならず、その本文も読まない人々ではないかと思います。
また同時に日本の憲法論者は、多くは英米に親しいものであって、英米は自由主義の国であるから悪いなどと申しますけれども、これはまた驚き入った意見で、憲法を開いて見れば、第一章においては天皇の大権をずっとご規定になり、第二章においては人民の権利義務自由を保証されたもので、第二章のおよそ10ヶ条ほどは悉(ことごと)く人民の権利と自由を保証したものであります。
全国の選挙人たるものは憲法の条文くらいは一通り読んで、この折角人民のために自由と権利を保証したところの10ヶ条以上の憲法の条文を、反古にするような意見に賛成しては相成りません。

また、明治天皇には、憲法は不磨の法典であるから、将来改正しては相成らん、独り憲法おみならず皇室典範も改正しては相成らん、もし他日改正の必要が起こった時には、天皇みずから発案するか、あるいはその子孫をして発案せしめ、貴衆両院の3分の2以上の出席と、3分の2以上の賛成とを得なければ一字一句たりといえども改正することは相成らんぞと、憲法において仰せられているのみならず、附属の御詔勅においても仰せられております。
選挙人たるものはよく心得ておかなければなりません。

要するに衆議院議員の選挙というものは、我が国に古来おこなわれておる所の道と同じようなもので、きわめて公平に敵味方を全く同等の位置に立たせて、公平なる投票を集むることの出来るようにしなければなりません。
すなわち角力(=相撲)は同じように真裸でどちらも道具を持たないで勝ち負けを決めさせる。
しかるに従来おこなわれた所の選挙の内には、ややもすれば、この角力と同じように取らせなければならぬところの選挙に、他の方には四十八手のうちに許された手、すなわち憲法法律が許してあるところの弁論場裡において、大層間違った事があった。
万機公論に決すべしと仰せられた大御心は欽定憲法の大本である。ゆえに私は是非ともこの点に向かって最後の御奉公をしたいのであります。

この目的のために今回も老年をも省みず、選挙場裡に立ち成敗利鈍を問わず、諸君にご相談をする訳であります。

尾崎選挙公報(後)

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軍部の検閲をくぐり抜けたこともあり、過度に扇動的あるいは挑発的な表現はここには見られません。
一方で、行間を読み解けば痛烈なまでの翼賛選挙批判であります。終戦を迎えた時の尾崎は実に87歳。翼賛選挙時の年齢は84歳、老骨に鞭を打っての戦いでありました。


終戦の節目となる本日8月15日は、全国各地で黙祷が捧げられることでしょう。不戦の誓いも述べられることでありましょう。

大戦で散華された幾多の御柱は、国を護るために戦われました。
その一人ひとりの想いに報いることはどういうことか。
そのひとつが、世間からは「非国民」と罵られた尾崎の決意にも込められているように思えてなりません。