2017.5.1
芦田均日記「尾崎咢堂先生を訪ふ」
今年は1947年(昭和22年)の日本国憲法公布から70周年の節目を迎えます。
咢堂・尾崎行雄はわが国における二つの憲法、明治憲法(大日本帝国憲法、1890.11.29~1947.5.3)と現行憲法(日本国憲法、1947.5.3~)、それぞれの施行に立ち会った唯一の国会議員でもあります。
果たして尾崎の眼には、現在の私たちが享受している憲法の公布と施行はどのように映ったでしょうか。
尾崎は自らの著書『民主政治読本』において「明治憲法と比べて、数段立派な憲法である」と評しながらも、「しかし国家は、いい憲法があれば栄えるというものではない。もしいい憲法がありさえすれば国家が栄えるものなら、滅びる国家はない」と看破しています。
さて、日本国憲法の制定前後をめぐる動きの中でも貴重な資料のひとつに『芦田均日記』があります。
その中で、新憲法の施行を間近に控えた1947年4月、憲法改正特別委員会委員長の立場にあった芦田が尾崎行雄を訪ねる場面があります。
憲法の是非や国体論に関しては人の想いもさまざまですが、あくまでも主義主張や信条を超えた「記録のひとつ」として以下に引用致します。
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尾崎咢堂先生を訪ふ
五月三日の憲法施行式日の挨拶に国会側から出す人が見当たらないので尾崎咢堂を煩わす外なしと決して使者をもって依頼したが拒否された。 そこで四月二八日午前九時四十分、私は逗子風雲閣の裏門から咢堂翁を訪ねた。
応接間に通されて廊下で翁と対座した。見下した逗子海岸の風光はよろしい。然し応接間の障子は破れ、電灯のシェードも破れてゐる。禅寺の庫裡とも言ふべき有様だ。私は自分の心に贅沢心の潜むことを恥じた。
私はゴム管を通じて翁と談ったが、私のくり返しての依頼にも翁は頑として応じない。ついに令息の行輝氏が現れて、「唯今聞いていると芦田さんの話が尤もだと思います。お父さん、御受けになったら宜しいでしょう」という。
翁は「お前が出て断つて呉れると思ったら、反対のことをいふ」と抑えて、更に私に向って「この通り親と子供との意見も違う。世間はなかなか私の思う通りにならぬ」。
そう言って応諾の気色もない。そして「折角の御来訪であるから、今日一日考えて御返事することにしましょう。但し明日お答えすると言ふのは決して承諾するという意味ではありませんよ」と付け加えられた。
私はもうだめだと思つたが、これ以上仕方がないので令息に万事を依頼して其話を打ち切った。咢堂翁の談片を思浮かべるまゝに誌すと次の通りだ。
「私は日本の将来を悲観してゐる。占領軍が撤退したら内乱が続くのであろう。占領軍がいるのに政党等が争つていてどうなる」。
「憲法にしても今度の改正憲法が永く行われるとは思はぬ。だから憲法の施行が芽出たいとは感じられない。だからといつて施行式の席でそういふ話も出来ないではないか」。
「此際は挙国一致内閣を作るんだ。それ以外に手はない」。
「この話は誰にもしない話だが、実は私は陛下が憲法実施を機会に御退位になるのが本筋と考へる。この点を陛下に奏上したいと考へてゐるが、陛下は果して戦争の道義的責任を感じてゐられるであらうか。実は昨年以来内謁見を頻りにすゝめられて、仲介に立つ人もあるが、其点について確たる見通しがなければ奏上もできないし、仲介者にも此際内謁見を受諾するとは言はない所以だ」。
私は、陛下が道義的責任について充分御考へになつてゐると信じますと答へた。あゝそうですか、と翁は頗る「さもありなむ」顔付きであつた。
次に「共産党はまだまだ殖える。あれ程永い間政府にいぢめられたら、復讐心ももえるのが自然でしよう。尤も野坂君にはさような感じはないようだ」、と言はれた。
私は依頼の件は所詮駄目と感じて少々鬱陶しい気持で辞去した。半日の間雨にぬれ、坂道の危険を冒して何の得るところもなかつた。
翌二十九日、尾崎行輝氏から電話で翁が承諾されたと通知があつた。
私はホッとした。
(施行式当日の様子。天皇陛下の左側、真ん中が尾崎)
出典:新聞通信調査会 2017年写真展「憲法と生きた戦後~施行70年」