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Yukio Ozaki and his daughter
("Yukio Ozaki and his daughter" Yousuf Karsh,1950)

2022.10.6

尾崎行雄の最期


1954年(昭和29)10月6日。咢堂・尾崎行雄が多臓器不全のため、神奈川県逗子の風雲閣で永眠しました。満95歳でした。
衆議院議員選挙に第1回から連続当選25回、議員在職63年の最長不倒でもあった尾崎の最期はどのようなものであったのか。
沢田謙著『尾崎行雄伝』その最終エピソードを引用転載いたします。

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「天命を知る」というのが、彼の生活の信条であった。
彼はついに宗教を信じなかったが、死生が天にあって、おのれにないことを悟っていた。
それで邪念がないから、彼の心境はいつも晴れ渡っていた。
「人を殺すものは労苦ではなくて、クヨクヨすることだ」と言うが、彼はどんな境涯にあっても、クヨクヨ思いまどうことがなかった。
それが彼に、古来まれな長寿を与えたのである。

ところが、こうして彼が次第に健康の回復に努めつつある時、またも議会が解散になった。何しろ前の選挙からわずか半年、続けざまの選挙である。咢堂会の人々も自信は無かったが、まさか国会開設以来、続けて当選し、すでに60余年勤続の世界記録をつくっている尾崎に、出馬を断念しろと勧める勇気はなかった。
そうして1953年(昭和28年)4月19日、この最後の選挙に尾崎は生まれてはじめて、落選の憂き目を味わったのである。

落選後の尾崎は、もう新聞にも目をくれなくなった。訪ねて来る新聞記者にも、政治上の話をすることを断り、ベッドの上に黙々と瞑想をつづけるような日が続いた。
胸中にはいかなる感慨が去来したであろうか。生涯を国会とともに生きてきた尾崎は、おそらく国会議員として、その生を終えたかったことであろう。
国会でもその気持ちを察したのか、彼のために特に規則をもうけ、憲政史上はじめての「衆議院名誉議員」の称号が贈られることとなった。


また東京都は、前年(1953年、昭和28)9月に制定された条例により、彼に名誉都民第1号を贈った。
その頃から尾崎は、もう生きる張り合いを失ったようだった。ことに彼と並んで、三重県の生んだ二大偉人として世界的名声を馳せていた「真珠王」御木本幸吉が尾崎の亡くなる前月、9月21日に没したことは、尾崎をなおのこと落胆させた。御木本は尾崎と同年、1858年(安政5)の生まれでもあった。


御木本幸吉(1858-1954)

こうして昭和29年の夏になると、尾崎の衰弱はいよいよひどく、医師も家人も回復の希望を失った。彼もすでに覚悟しているようだった。
それでも夏の間はどうにか過ごしたが、10月6日、ついに最後の日が来た。
「いい気持、いい気持」というのが、尾崎行雄の最後の言葉であった。幼いころから母に戒められたとおり。口元に微笑をうかべて、眠るように生涯の幕を閉じたのであった。あと1月半で96歳という大往生であった。
そしてその葬儀は衆議院葬として、東京の築地本願寺で厳かに営まれた。